初心運転者講習の通知は来たけど、行政処分と罰金の通知が来てない件

 どうも、気付くと先輩が5人ほど辞めていたり、免許停止に怯えているのにいつまで経っても止まらない僕です。

 近況で言えば、よく分からないけど前進している感(要は僕自身の努力と関係なく、ということ)があって何やら不思議な感じ。


【疑似母を求めるという心理からの「エヴァ」へのアプローチ】(隠れ蓑~penseur~)

【エヴァ以降の庵野秀明の諸作品について】(隠れ蓑~penseur~)
【エヴァという子どもの傷み】(隠れ蓑~penseur~)
エヴァという物語は「息子が父を殺して母を寝取る」ドラマだということを見逃してはならないと思う。そしてこの原理はある意味ほかのオタク作品にも共通する性質であって、さらに敷衍して語るなら、この「母」への執着といったものは日本人の心性のある傾向とでもいうべきもの

 たとえば美少女ゲームだと、“父”に相当するのはヒロインたちの抱えている諸問題、“運命”とも言うべきものに置き換えられるんじゃないかなって言うと、それはトンデモなのだけれど、それをおしてここでは仮に「置き換えられるのだ!」として語ると、そもそもひととひととを結ぶ関係性は、親子の関係を原点にして、それを希釈・模倣するほかなく、もっというと、“世界”と“個人”の結びつき方も、結局は同じことなのではないかなと思ってしまうわけですよ。

 だから、

この「母」への執着といったものは日本人の心性のある傾向とでもいうべきもの


 というのはどうだろう、と思う。
 日本から出たことのない、ほとんど日本人としか係わったことのない、僕が言ってしまうのは、ちょっとアレなのですが。アレ。

 そして若干話を戻すと、“運命”が、あるいは“理不尽”が父だとするなら、やっぱり“母”は“恵み”であったり、“幸福”であったり、するのではないかなって思うですよ。

 運命という理不尽が、恵みを所持していて僕らから幸福を奪う。

 これはどうしても避け得ないことなのだけれど、父をひとりの人間として見るのではなく、“父”として見てしまうから、そういう重ね方が出来てしまうのは、なんだかしょうがないことのような気がする。

 ま、とかくエヴァとは人生の中で個人がどう在るべきか、という問いに対する庵野監督なりの答えのひとつなのでしょう。

 それは結局、他者だろうじゃ自分だろうがなんだろうが、ありのままを見るべきであり、何かの型に押し込めてしまうな、ということなのかなー、とぼんやり。

 型に押し込めたい、それも、自分という型の中に、全てを押し込めたい、その中で充足し切ってしまいたい。

 それはもしかしたら辛くはないのかもしれないけど、喜びはないよね、と。僕らはひとりひとり違う人間で、弱くて、ときにどうしようもないほどみじめで、みっともなくて、けれど、何にも得られなくとも、歯を食いしばることしかできなくとも、僕は僕だった、ということだけは、残るのではないかな。

 むつかしいね、むつかしいや。

 これはエヴァという文脈でのみ語るべきことでもないので、いつか、そのうち、また今度書きたいな、書ければいいなあ。

 あ、Cowaさんが復活しているけど、ドラゴンボール改はないと思う。