雑記とか その58「仏蘭西少女は今春発売ですって。今春……?来春じゃね」

 こっそりゼーガ視聴中。なんだインタールードか(違

 昨今のアニメは(割とゲームも)人類補完計画が人類に幸福を与えるのです^^」→「たとえ争い合うことになろうと多様性を保持したまま、切磋琢磨していった方がいいよ。そこから、喜びは生まれるんだよ!」てな感じの作品がやたらと多い感があるのですが、ゼーガってつまり人類補完計画後の世界なんでしょうね。地域ごとに“人々が詰まっている”量子コンピュータが分けられていて、その中で永遠の夢が繰り広げられている。

 一方で、量子コンピュータの“外装”が、人類を滅ぼした敵と戦いつつ、“永遠の夢”を守ろうとしている。あるいは、取り戻そうとしている。クローン技術がある程度以上発達していれば、「平和になれば、残されたDNAコピーをもとにちょいちょいと」ってな感じで、“人類再生”自体は可能なのかもですが。でも、もう、みんな死んじゃっている世界かー。得るもの、守るものが、失われた上での戦い。得るものが既に失われている、なんて矛盾。得られるものなど、守れるものなど、そこにないことを、知っているのだから。

 あ、インタールードはひとりの少女の脳の中に人類を退避させた世界で、これもまたゼーガのような“夢の世界”なんですね。その世界にいる、少女のアバター(世界を構築している脳の持ち主の分身)と、夢の十人たる少年(この少年だけは、“再生された住人”ではなく、もしかしたら少女の妄想上のヒーローなのかも。や、主人公なんですけどね)のボーイ・ミッツ・ガールからはじまる、破滅的な恋物語です。

 どこに希望を見出すか、か。問われるのは、決定的な破滅との向かい合う姿勢。「世界がもしも破滅するのなら」ではなく「世界がもしも既に破滅していたとするなら」というifは、結構、その、ガンダム00なんかとも被る。あるいはギアスにも被る。

 陳腐な言い方をすれば、絶望とどう向き合うか。ギアスも、00も、結局“神秘の力”に頼って、つまり常識を覆す絶対的な力に頼っていた。

 ゼーガは、「変えられない。が、だとしても、既存の力を繋ぎ合わせ、全力で、最期まで……」なんでしょう。

 薄ら寒いことを、言っているのは、どちらか。これは、送り手側ではなく受け手側に問われていること。

 僕は、結構好きかも。シズノ先輩が未来のカミナギとか、将来ふたりの間に出来た娘とか、そういうオチはないの……(´・ω・`)?
 や、だって舞浜サーバーで繰り広げられている“夢の世界”は“現実”の40年前なんでしょっ。