『聖少女』著者:倉橋由美子 感想

あらすじ

 交通事故で一時的な記憶喪失に陥った未紀。残されたノートには少女小説じみた情事の記録があり、これを手がかりに青年Kは未紀という人間を紐解いていく。
聖少女 (新潮文庫)聖少女 (新潮文庫)
著者:倉橋 由美子
販売元:新潮社
(2008-01)
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感想

 この小説、”ノート”に関わる事柄だけでなく、一から十まで現実と虚構が錯綜しているように感じました。物語は”ぼく”のKか、「あたし」の未紀による一人称で進んでいきます。はじめは”ぼく”の視点で物語が進み、Kが”ノート”を読むときは「あたし」に変わる。ではこれは単にKが狂言回しの一人称小説なのかというと、少しだけ違っていて、この作品自体がKの書いた小説なのだろうと思いました。

 それでも眠れなかったのでぼくは書いた。
 いつのまにかぼくは二流小説家風の文体を獲得しはじめているらしい。だがいまぼくの書いているものが、首尾よく小説というものに化けるかどうか、ぼくは知らない。もともとぼくには小説を書く気がまえなんかなかったのだ。 ~中略~ こうして宙吊りになっている状態では、なにかを書かずにはいられないものだ。ひとは跳べないときに書くのだろう。
~中略~
 こうして書きはじめた以上はどこまでも迷いこむかもしれない地獄への旅に出たようなものだと覚悟をきめる必要があるだろう。
聖少女/倉橋由美子

 ここでKの書き始めたという”小説”はこれ以降どこにも登場せず、煙のように消えてしまいます。見方によっては「この文以降がすべてKの創作なのだ」とも読めそうではあるが、ぼくは「この作品自体がKの創作」であると思いました。
 それは何故って根拠のあるものではないのですが、あえて言うのであれば、Kが彼の一人称で自分で語る言葉に不可思議な点があまりにも多いからです。

・高校生時代と大学生
 Kは作中で2種類の過去を語ります。ひとつは高校生時代、狼のような非行少年だった頃の話。ひとつは大学生時代の安保闘争の話。両者とも別に否定的には描かず、むしろ肯定的に表現されていました。

・Lと”作家”
 作中、回想でこそ現れますが一度も姿を見せないL。回想の中でさえ、言葉を発することはありません。
 そして”作家”の治療に際して”弟”と名乗ったり、あるいは独白の中でも「弟のような関係」と表現していたり。


・”ばばあ”と”ばあや”
 Kの母である「ばばあ」と屋敷の女中。共通点が多く、深読みすると同一人物なのではないかとすら。

 ひとつひとつは些細なものですが、違和感が積み重なってきたというわけです。
 では、本作『聖少女』がKの私小説めいた創作だとして、これは一体どういうものなのか。裏表紙には「近親相姦の聖化」と書かれていますが、ひたすら「Kの人生の聖化」が行われていたのだと思います。

 Kは自分の体験から都合の悪いこと、美しくないものを削ぎ落とし、ときに書き換え、「黒い太陽のような自分」を描いていきましたが、最終的には嘘をつききれず、彼という陽は落ちてしまいます。彼が本作で行なっていたことは「アイデンティティの再構築」であったのでしょう。高校生のときには世にあだなす狼になってみたけれど虚しさが残り、大学生のときには逆に世を変えようと安保闘争に身を置くが挫折し、成人してからは愛していたLすら喪い抜け殻になっていたK。未紀をそれらの代替としようとしますが、彼は何も選ぶことが出来ずに終わりを迎えてしまいました。
 一方で未紀もパパの死期が近づいたこと、関係が終焉に向かうこと、そして半ば仮想敵であったであろう母が亡くなり、自分自身を見失ってしまっている状態にありました。だからKを求めようとしたのですが、おそらくKを「父の代替」としようがしたためにこちらも失敗に終わります。人は別の誰かと同じカタチになれません。

 それが何故かというと、ぼくには二人が一度も「対話」をしなかったためであるように感じました。対話とはなにかというと、「下半身のないふたつのトルソー」ではない状態でお互いの気持ちや身体を通じ合わせることだと思います。記憶を喪った未紀、そして彼女に偽りの婚約者というカタチで近づくK。どちらも背景を持たない人間。「その人自身」を形作るものは記憶や肉体や身分などの背景です。その人が培ってきた過去、と言い換えてもいいでしょう。彼らふたりは「自分自身」に損傷や欠落こそ持っていましたが、たしかにそれを構築していました。ですから損傷や欠落があった上で、触れ合えばよかった。言葉や触れ合いで「自分自身」を伝えて、「相手自身」を受け取る。そのような対話が作中では一度もありませんでした。
 事実か創作ではないのか曖昧な「ノート」を受け取るK。このノートは正体こそ曖昧なものの、けれどもたしかに未紀を想いやこころが詰まっていたのです。Kは作中で「ノート」の内容が事実か創作かに囚われ過ぎていたように思います。どちらにせよ、あれは「裸のこころ」としか言いようがないもので事実か嘘かではなく内容について考えるべきでした。そして自分自身を開示してもよかった。
 未紀の側ではさまざまな方法でKを挑発して、彼の核にある「L」の存在を突き止め、選択を迫ったのですが、あまりに受け身であり過ぎた印象があります。

 お互いが透明であやふやな存在で居続けたがために、両者ともがその正体を掴めずに、手を取合いたかったのに手に触れることが出来なかった。

 本作は退廃のあとに起こった、「自然死」の話であったように思います。ぼくは、ふたたび歩き出す彼らの姿を見たかったです。きらきらした回想の話は美しく、それだけで鑑賞に堪えるものではありましたが、読んでいる中でずっときらめいて居て欲しいと願っていました。
 ただ、本作を読み終えた際、ある方から

倉橋由美子はその作品群の中で、過去作に“出演”したキャラクターを再登場させることがある。それは“要素“を持っているだけで別人ではあるのだが、倉橋世界観の中である種の実験が行われ、螺旋を描いているようにも思える」


 という話を伺いました。ぼくはこれを聞いて、ふたたび希望を持ってもいいのかもしれないと思っています。同じ状況は訪れなくとも、他の作品で未紀やKは何か救いを得るのではないか。自分自身を救うことが出来るのではないか。期待を抱いて読み進めていこうと思います。