携帯投稿:私信というかアスリードごめん、おかわりごめんというか

 今期だと墓場鬼太郎のらみみは冗長性の強い作品である、と僕は思っています。鬼太郎はその冗長性に秘められた、秩序の崩壊、無常観こそが醍醐味。流し見するのではなく、かといってテレビの前で膝をついて熱中しなが見るのではなく。酒の肴程度の距離感を保ってのうまく乗っかってあげるとすこぶる面白い。

 のらみみはノスタルジィを誘うけれど、しかして“僕らの夢”のパロディでもあり。郷愁を誘う“だけ”では終わらないし、子供向けの訓話でもない。これまで居候キャラアニメにおいて子供側の視点は幾度となく描かれて来たけれど、その子供を囲む大人の視点と、居候キャラたちの本音(子供達の前で見せる姿は建前。多くの人にとってもそうでしょうが、しかしてキャラにとって建前とは存在意義であり存在理由なので脅迫観念みたいなもの。ぶっちゃけガンスリにおける義体の少女たちとさして変わらない)を哀愁を伴いながらも、けれど暖かく描く。その暖かさ、郷愁を、“僕らの夢”を包み込んでくれる。
 若干の皮肉が入っていますが、まあこれは居候アニメ賛歌なわけですよ。

「よく考えればこういう粗もあったかも……お前らもしっかりその粗を見つめろよ!……?見つめたな?認めたな?よし、本題はここからだ。でも俺達はその粗も含めて居候アニメが大好きだ!!最高だ!俺のうちにも来て欲しかった!あのエピソードが俺の糧となったから今があるんだいッ!」

 みたいなね。まぬけづらもこれに同調出来る部分もありますし、

「ウサギキャラならなんでもいいのかよ!」≒「ツンデレ(=適当な属性を当て嵌めてね!)ならなんでもいいのかよ」→「必要としている心も、感謝してくれているの心も本物なんだし、まあこれでいっか……」

 とすれば、オタク的に普遍化は可能です。自分に責はないのに、必要とされなくなったキャラ≒必要とされる層からの水準は満たしているのに本来必要とされない層に酷評を受けてしまったアニメ作品≒うち的に見れば某おかわり(単体として見ればそう悪くない可能性もあるでしょう。まぁまぬけづらは単体では評価出来ないので見切りましたが)や某二ノ宮(苦手分野に手をだそうとした俺が悪かった)とか……なんて言う風に見てしまうとアスリードごめんしか言えなくなってしまうので、どうしても口ごもってしまうのです。だから、分かっていても気付かないフリをしてしまうんですよ!!