雑記とか その89「今年のアニメ総括」

 書いててよかったサイドバー。

 以下、秋アニメ一本も入っていませんがしょうがないよね! true tears
 いわゆるビルドゥングスロマンでありました。

 「自分は囚われている」と感じていた少年少女たち。しかし、彼らを押さえ付けていたのは、実は自身そのものであって。
 世界を見つめて、自分も見つめて。
 自縄自縛から抜け出すのが、この物語の本懐と言えるでしょう。

 そのことを教えてくれたのは、親や友人でもありますが、何よりは彼らそれぞれのパートナー。
 恋愛を通して――人と心から触れ合うことで――彼らは成長していくのです。

  本作の魅力は、“眞一郎の”丁寧な心理描写。彼の目から語られる世界と、実際の齟齬をきちんと描いて見せることで行間を読ませようという構成。すなわち、群像劇としても堪え得る。

 陰鬱さと爽やかさの混淆があるのは、正面から“少年”を捉えた証拠。
 どこかノスタルジックで、それでいて幻想的な土地・富山を舞台に描かれていく青春物語。面白いですよ。
RD 潜脳調査室
 アイデンティティを、生きる目的を一度失ったとして、それは取り戻せるもの。いや、“取り戻さなくてはいけないもの”であり、常に探し続けなければいけないものでもある。開拓地は後ろにしなかく、目の前にあるのは常に未開拓地。迷っても、躓いてもいいから、前へ進もう。大丈夫、たとえ斃れても後に遺るものはあるのだから。
 再起の物語として、これほど清々しいものはないかな。

PERSONA -trinity soul-
 隠された想い、見えない傷、“本当の自分”――。

 ひとは誰しもがこれらを抱え、生きていく。それは、忘れてはならないもの。失くしてしまったら取り戻さなければならないし、「なかったこと」には、決してしてはいけない。

 それは、当然だが歪みを生む。歪みを生んだ人々が交わり続ければ、それはすなわち世界が歪んでしまう、ということ。

 自身に対して自己を偽ってはいけない。

 誰かと触れるときに出てくる顔も、また、自分自身。その全てが、自分。それもまた、受け容れなければいけないこと。偽りの自分なんて、本当はどこにもいない。
 理不尽を、受け容れて、その上で、誰かと手と手を取り合って。そうするのが、歪みなく生きるということ。それがよりよく生きるということ。

 生きるっていうのは、それだけで難しい。大変だ。
 でも、出来ないことはではない。
 その中で、大切なモノを見付けられると、いいね。それは幸せなことだ。

 今を受け容れてこそ、明日へ進める。本作は、そんな物語でありました。


xxxHOLiC◆継
 因果応報という概念を徹頭徹尾貫き、世に示した作品。
 原因はひとの意思で簡単に作れてしまい、望む望まざるに関わらず結果を導き出してしまう。なればこそ、“強い意志”を以てして生きて行こう。

 ラブロマンスとして、これ以上ないほどに優秀でもあるので、ミーハーな気持ちで楽しんでも十分面白い。

Mnemosyne-ムネモシュネの娘たち-
 こちらは純正ノワール
 不死の生命を用いて「生きるとは?」という問い掛けがあり、結局はメメント・モリなのかもしれません。
 ……なんだか、柳生新陰流で言うところの、活人剣を思い起こしますね。

狼と香辛料
 信頼という土台の上で行われる主導権争い、駆け引き。商売も恋も、人の営みはこれに尽きる。
 作者のしなやかな人生観が伺えます。


マクロスF


 ノブレス・オブリージュについてのお話。ただし、責任を持つのは高貴な者だけではない。
 万人がそれぞれの責任を果たさなければならず、責任とは、自分と関わるもの全てに対して、大なり小なり持っていなければならないものなのだ。
 少年と少女、そしてひとりの中年の成長によってそれが語られていました。

コードギアス 反逆のルルーシュ R2
 誰かを犠牲にし続けることで、“偉大な献身”を必要とすることで、楽園を築こうという作品。しかし、その“献身”は実際的な“裁き”を伴わないだけで神にならんとした暴虐とさして変わらず。
 人々の希望が、人々を制する、というのはアイディアルなものに縋らせるということで、それはやっぱり“神”に寄り掛かった世界で、時が経てばその“権力”は実行力を持ってしまう。確かに未来への可能性はあるけれど、不気味な予兆も孕んでいる。
 これを華やかな演出を堅持したまま描いたのは作品としては見事だとは思えど、許せないものを、受け容れられないものを感じました。
 それは、人々に未来を託したわけではないから。ただひとりの意志を、“世界”に対して押し通そうとする傲慢を、結果的によしとしてしまったことに違和を覚えるから。

BLASSREITER
 「英雄とは?」という問い掛けとその答え。ダークヒーローではなく、人間臭いヒーロー。ノワールと呼ぶには“性と暴力”のうち前者が致命的に欠けてこそいるけれど、ハードボイルドの息吹が感じられます。
 つまりそれは、正しく仮面ライダー
「なんでも解決してくれる」偶像ではなく、人としてよりよく生きようとする姿勢とその価値を説いてくれています。
 万能(ヒーロー)ではないからこそ失敗もする。だがしかし、だからこそ、不屈の意志を持って“生”に臨まなければならないのだ。「自分は万能(ヒーロー)ではない」は、言い訳にしか過ぎない。




 というわけで、アニ感関係はこれで今年最後。来年も続けられていれば、いいなぁ。

 true tears、よかったよね。今年はあれ一本あれば幸せだったよね!

 少なくとも僕は、ttとRDと、あとはペルソナでもあれば割りと気分よく毎日を過ごせました(他にも何か色々なものが僕を支えてくれていたような記憶もありますが)

 以下私事をちょいちょい書くと、

 ttそのものが、らいごうまるの本だということを、たぶん忘れてはいけなくて。

 だからこそ、僕は選んだこともあって、後押ししてくれるものもなんだか幾つかあったりした。でも僕はたとえそれを行い得ても味噌ラーメンは作るべきではないし、らいごうまるの本を描くべきでも、続きを要求するべきでもないのでしょう。僕は僕をやるしかない。

 何でアニメなのかというと、そりゃもう僕自身、骨の髄まで沁み渡っているもので、切り離せないとすら思うから、というのが一番の理由になるのかな。あるいは海である、と言えるのかもしれません。僕にとっては。

 だから僕は今はただ海に潜りたいだけなのかも。某所で言った「意味を持たせたい」のは、実はアニメを観て、感想を書いてきたことだけでなく、もっと深いところで、僕自身に、僕自身が、ということなのかなー、なんてモニョモニョグニャグニャ。

 アニメの武器は気取ったところのない大衆娯楽であるところ。つまり“とっつきやすさ”だと思います。他には実写と違って「制作者が作中の事象の全てを操作可能」という点もあるけれど、これは理屈だけのもので、やっぱり“縛り”はたくさんある。色んな面で存在している。

 けれど、とはいっても、サンドイッチみたいに何か作業中でも気楽に手を伸ばせる、日々の糧になり得るんじゃないかな。

 映画や実写は長いし、制作側も無意識に置いちゃう情報の量が多過ぎて視聴する側としては取り零すものもまた多過ぎちゃう。

 活字はいつでもどこでも読める分だけ有利だけれど、「読もう」という気力が必要だし、なんだかんだで“それひとつしか出来ない”じゃない。同時に何かをやることが出来ない。そして、本気で読もうとするなら行間を読むのはもちろん情景を、声を、匂いを、感触を想像するだけの集中力が必要だと思うんですよね。

 というわけで、アニメはいいよね。ほぼ全て用意してくれるので自分でなんとか想像する必要がない。それでいて画面に余計なものを置く体力がないだけに、必要なものしか置かれず、焦点がブレない。なんだったら同時並行で何かしらの作業をしていても全然OK。

 とても親切な娯楽だと、僕なんかは思いますよ。

 結論を言えば、いつも通りに「アニメを見ればいいと思うよ!」となるんですが、はてさて。

 僕自身、どうなるのかは分かりませんが、とりあえずこっちの方へ。