『紅 kure-nai』の感想文です
アニメが面白かった分、そして欠点がありありと見えてしまっていた分、実のところ原作にはあまり期待していなかったのですが、十二分に楽しめました。
諦観を抱えアウトサイダーとして生きようとする少年が、自分とは真逆の性質を持つ少女と出会い、生きる喜びを見出す物語でありました。
■紅真九郎
どうも難しい。
察しの良い読者さんというのは居て、この前僕が唐突にFate語りをしたことで気付かれた方も、あるいは……?
僕は、どうしてもFateの士郎と真九郎を重ねて見てしまっているところがあります。
というか、紅とFateを、と言ってしまってもいいかもわかりません。
基本的に、奈須きのこ作品の主人公というのはロクデナシばかりで、もちろん衛宮士郎くんもその例に漏れない。
そんな士郎と重なって見えてしまう紅真九郎はどうなのか。
少なくとも、バックボーンは被る。目指すものも、被る。生き方が、どうしようもなく被る。
けれど、真九郎は士郎とは大きく違った面も持っているんですよね。
士郎はどこまでも盲目でした。自分の望みに対して、エゴに対して、生き方に対して、盲目でした。
視る力が、瞳がないわけではなく、敢えて見ないようにしていて、いつしかその欺瞞に飲み込まれた末が、アーチャー。
アーチャーがどこまでも“空っぽの英雄”だった、というのは以前語った通り。ここでは語りません。
真九郎は、見てしまった。というか、直視し続けてしまっている。
自分は、柔沢紅香に憧れている。
それは誰かを救いたいからではなく、自分が救われたいから。
自分は弱いから、世界の悪意に、そして何より自分自身に呑み込まれないように、紅香のような“強さ”を欲している。
これを、彼は直視し続けている。
だから彼の奥底にあるのは、昏い絶望であるわけです。
真九郎は“幸福”に憧れる。もっといえば、暖かい家庭に、憧れている。
しかし、彼はそれを志向しない。自分には資格がないから、“それ”を手に入れるには、胸に光が宿っていないと、そしてその光を守り抜ける力を持っていないといけないから。
そんなもの、自分は持っていないから。強くなろうとしても、弱いままで、何も変わらない、“変われない”から。
これが、真九郎がどこまでも家族的な空間から離れようとする、その理由。
真九郎は、紫を救うことで、彼女が幸福を勝ち取ることで、自分も救われたがっている。
それが、「自分も幸せになってもいいのだ」という力強い後押しになるから。
これには汚さがある。生きる上での、どうしようもなさが。
真九郎は、綺麗な感情だけで紫を見ているのでは、決してないと思いますね。
それが、本作の気持ちよいところ。肝心なところで嘘がない。誠実なんですよね。
真九郎の持つ汚さは、弱さは、罪ではないと、僕なんかは思っています。
単調な力としての強さが、正しさに、というか。
よりよき道に繋がるとは、とても思えない。
それが必要になることもあって、持っていても決して損にはならないんでしょうが、けれども、それを頼りに生きてはいけないと、僕は思う。
それはいつか、折れてしまうんじゃないかな。
様々な小さな力を縒り合わせることで、人はしなやかさを手に入れるんじゃないかな。他の、強い力を受けても、耐えられるような、せめて潰れないような、強靭さ。
それこそが、真の意味での“強さ”なんじゃないのかな。
真九郎の周囲にはそれを可能とするだけの要素が散らばっていて、ドラマの中でこれらをうまく混淆させてくれれば、しっかりした説得力が生まれるのではないでしょうか。
人が、理不尽な世界で生きるということに、生き抜けるということに。
■九鳳院紫
紫については、真九郎の項で書いたことがすべてかな、という気はしますね。
彼女は“受け容れる”という選択肢も持っていて、それが決して妥協ではないところに、あきらめではないところに彼女の強さが、そして魅力がある。
“清”しかないような、それそのものとしか見えないような彼女ではあるんですが、しかして“濁”も受け止められる器の大きさ。
これを、作中では「幼さから来る視野の狭さ故の姿勢ではない」としています。
ただ、残念ながらそれを信じさせてくれるに足る根拠を、未だ作中では示してくれていないように、僕には思えています。
これからしばらくは真九郎の支えとなる役どころなんでしょうが、できれば彼女自身の戦いも早く見てみたいかな。
このままでは、超然とし過ぎています。彼女が持つ神々しさに、僕は歪な恐ろしさを感じてしまう。
興味深く、見守っていこうと思います。
■村上銀子
幼馴染かわいいよ幼馴染。
「メガネを掛けたキツイ女の子」なんて形容してしまうと、かなり微妙な印象を植え付けてしまいそうです。や、間違ってはいないはずなんですけどね。
真九郎に打算なく接している、彼の味方は、あるいは彼女だけなのかも?とすら思えてしまう。や、実にいい女です。
ただ、この巻ではあまり言うべきところがないかな。彼女の持つ性質は美徳でもあるんですが、まー、損な性分ですよね。
■崩月夕乃
ビッチかわいいよビッチ。(いい意味で)
いいように、自分の立場を使っています。
”女”の薫りを燻らせながら、”姉”として近付いてくる。
この狡猾さは嫌いではないです。(好きという意味)
誘っているのに、自分からは直接手を出そうとしない。真九郎の方から来るのを待っている、というのは”女性(にょしょう)”的な狡猾さというよりも、年若い少女としての臆病さ、と言った方が正しいのかな。
ま、数少ない可愛らしいところ、とも言えるでしょう。
けれど、彼女が真九郎を望む理由は、結構重たく、そして不誠実。
おそらく自分の血筋への後ろめたさが強いのでしょう。
後ろめたさをあまり感じずに接することのできる、触れあうことのできる、都合のよい男の子。
姉として、師範として。
弟子を見守り育てる気持とは別の、“女”としての気持ちとしては、切実で痛ましい姿で求めてはいるけれど、“紅真九郎”を欲しているわけではない。
ま、その気持ちをどうにか本物にしたいがためにこそ、彼女は恋愛ごっこに興じるのでしょうけどね。
面白いし、魅力的ではあるんですが、業深い女性です。
■感想
本作は荒唐無稽な設定の作品です。
であるのに、人として生きる上でもっとも普遍的なテーマを扱っていて、それがしっかり世界観とマッチしており、面白いですね。
まー、「ありえない!」とは言え、設定だけを見るとあからさまに固ゆで卵。それに似せるための“あそび”が多い。
本作にはノワールというほどの陰鬱さもなく、まだ大丈夫なのでしょう。
けれど、その息吹は本物で、だからこそ期待できる部分もありますが、不安もまた、存在しています。
どう転がっていくのは、実に楽しみな作品です。
紅 (集英社スーパーダッシュ文庫)
諦観を抱えアウトサイダーとして生きようとする少年が、自分とは真逆の性質を持つ少女と出会い、生きる喜びを見出す物語でありました。
■紅真九郎
どうも難しい。
察しの良い読者さんというのは居て、この前僕が唐突にFate語りをしたことで気付かれた方も、あるいは……?
僕は、どうしてもFateの士郎と真九郎を重ねて見てしまっているところがあります。
というか、紅とFateを、と言ってしまってもいいかもわかりません。
基本的に、奈須きのこ作品の主人公というのはロクデナシばかりで、もちろん衛宮士郎くんもその例に漏れない。
そんな士郎と重なって見えてしまう紅真九郎はどうなのか。
少なくとも、バックボーンは被る。目指すものも、被る。生き方が、どうしようもなく被る。
けれど、真九郎は士郎とは大きく違った面も持っているんですよね。
士郎はどこまでも盲目でした。自分の望みに対して、エゴに対して、生き方に対して、盲目でした。
視る力が、瞳がないわけではなく、敢えて見ないようにしていて、いつしかその欺瞞に飲み込まれた末が、アーチャー。
アーチャーがどこまでも“空っぽの英雄”だった、というのは以前語った通り。ここでは語りません。
真九郎は、見てしまった。というか、直視し続けてしまっている。
自分は、柔沢紅香に憧れている。
それは誰かを救いたいからではなく、自分が救われたいから。
自分は弱いから、世界の悪意に、そして何より自分自身に呑み込まれないように、紅香のような“強さ”を欲している。
これを、彼は直視し続けている。
だから彼の奥底にあるのは、昏い絶望であるわけです。
真九郎は“幸福”に憧れる。もっといえば、暖かい家庭に、憧れている。
しかし、彼はそれを志向しない。自分には資格がないから、“それ”を手に入れるには、胸に光が宿っていないと、そしてその光を守り抜ける力を持っていないといけないから。
そんなもの、自分は持っていないから。強くなろうとしても、弱いままで、何も変わらない、“変われない”から。
これが、真九郎がどこまでも家族的な空間から離れようとする、その理由。
真九郎は、紫を救うことで、彼女が幸福を勝ち取ることで、自分も救われたがっている。
それが、「自分も幸せになってもいいのだ」という力強い後押しになるから。
これには汚さがある。生きる上での、どうしようもなさが。
真九郎は、綺麗な感情だけで紫を見ているのでは、決してないと思いますね。
それが、本作の気持ちよいところ。肝心なところで嘘がない。誠実なんですよね。
真九郎の持つ汚さは、弱さは、罪ではないと、僕なんかは思っています。
単調な力としての強さが、正しさに、というか。
よりよき道に繋がるとは、とても思えない。
それが必要になることもあって、持っていても決して損にはならないんでしょうが、けれども、それを頼りに生きてはいけないと、僕は思う。
それはいつか、折れてしまうんじゃないかな。
様々な小さな力を縒り合わせることで、人はしなやかさを手に入れるんじゃないかな。他の、強い力を受けても、耐えられるような、せめて潰れないような、強靭さ。
それこそが、真の意味での“強さ”なんじゃないのかな。
真九郎の周囲にはそれを可能とするだけの要素が散らばっていて、ドラマの中でこれらをうまく混淆させてくれれば、しっかりした説得力が生まれるのではないでしょうか。
人が、理不尽な世界で生きるということに、生き抜けるということに。
■九鳳院紫
紫については、真九郎の項で書いたことがすべてかな、という気はしますね。
彼女は“受け容れる”という選択肢も持っていて、それが決して妥協ではないところに、あきらめではないところに彼女の強さが、そして魅力がある。
“清”しかないような、それそのものとしか見えないような彼女ではあるんですが、しかして“濁”も受け止められる器の大きさ。
これを、作中では「幼さから来る視野の狭さ故の姿勢ではない」としています。
ただ、残念ながらそれを信じさせてくれるに足る根拠を、未だ作中では示してくれていないように、僕には思えています。
これからしばらくは真九郎の支えとなる役どころなんでしょうが、できれば彼女自身の戦いも早く見てみたいかな。
このままでは、超然とし過ぎています。彼女が持つ神々しさに、僕は歪な恐ろしさを感じてしまう。
興味深く、見守っていこうと思います。
■村上銀子
幼馴染かわいいよ幼馴染。
「メガネを掛けたキツイ女の子」なんて形容してしまうと、かなり微妙な印象を植え付けてしまいそうです。や、間違ってはいないはずなんですけどね。
真九郎に打算なく接している、彼の味方は、あるいは彼女だけなのかも?とすら思えてしまう。や、実にいい女です。
ただ、この巻ではあまり言うべきところがないかな。彼女の持つ性質は美徳でもあるんですが、まー、損な性分ですよね。
■崩月夕乃
ビッチかわいいよビッチ。(いい意味で)
いいように、自分の立場を使っています。
”女”の薫りを燻らせながら、”姉”として近付いてくる。
この狡猾さは嫌いではないです。(好きという意味)
誘っているのに、自分からは直接手を出そうとしない。真九郎の方から来るのを待っている、というのは”女性(にょしょう)”的な狡猾さというよりも、年若い少女としての臆病さ、と言った方が正しいのかな。
ま、数少ない可愛らしいところ、とも言えるでしょう。
けれど、彼女が真九郎を望む理由は、結構重たく、そして不誠実。
おそらく自分の血筋への後ろめたさが強いのでしょう。
後ろめたさをあまり感じずに接することのできる、触れあうことのできる、都合のよい男の子。
姉として、師範として。
弟子を見守り育てる気持とは別の、“女”としての気持ちとしては、切実で痛ましい姿で求めてはいるけれど、“紅真九郎”を欲しているわけではない。
ま、その気持ちをどうにか本物にしたいがためにこそ、彼女は恋愛ごっこに興じるのでしょうけどね。
面白いし、魅力的ではあるんですが、業深い女性です。
■感想
本作は荒唐無稽な設定の作品です。
であるのに、人として生きる上でもっとも普遍的なテーマを扱っていて、それがしっかり世界観とマッチしており、面白いですね。
まー、「ありえない!」とは言え、設定だけを見るとあからさまに固ゆで卵。それに似せるための“あそび”が多い。
本作にはノワールというほどの陰鬱さもなく、まだ大丈夫なのでしょう。
けれど、その息吹は本物で、だからこそ期待できる部分もありますが、不安もまた、存在しています。
どう転がっていくのは、実に楽しみな作品です。
紅 (集英社スーパーダッシュ文庫)