天元突破グレンラガンとか その1

 先日劇場版グレンラガンを観てからモヤモヤしていることがあって、それは何かというと僕はどうもあの作品を読み違えていたんじゃないか、ということなんですね。

 月曜日は帰宅後真っ先に無心になって日記帳にその日の出来事を書き記したのですが、メインは一日の情景よりもグレンラガンの梗概だったぐらいに、頭の中をグルグルしている。

 確か、以前に「カミナの孤独を誰もわかってやっていなかったんじゃないか」とか書いた覚えがあるんですが、実際にはヨーコは分かっていた、あるいは分かろうとしていた。そんなもんだから、チミルフとの決戦時頻りに「後ろは自分が守る」とかなんとか言っていた。

 それは、恋心から来る、相手を欲する心から来る不安とか、あるいは独占欲とか、そういうものであったと、たぶん当時の僕は片付けていたんでしょう。
 けれど、本編を濃縮されているであろう劇場版を見るに、どうも、それだけでないことが分かってきました。……如何にも遅い。超絶遅い理解でごめんなさい。

 他にはカミナが最期にシモンへ呼び掛けたときの呼び名が“相棒”ではなく“ダチ公”なのも、今更はっとしました。それまでは二人で一つ、一心同体だった。
 そもそも、あの回では終始グレンとラガンは分かれて行動しており必要なときだけ合体していた。

 いや、「最初っから合体して戦う」なんてことの方が少ないわけではあるんですが「最初っから別行動」という状態はなかったはず。離れるときはいつもお互いがお互いをハラハラ見守っていたように、僕には見えていた。

 これまでは、自分とパートナーを分けて考えてはなかった。

 これがダチ公になるとどうだろう。少し距離の開いた関係になるんじゃないかな。

 “これまで”からの決別と、大切な人との離別を掛け合わせてしまうのは、ちょっとセンチメンタルなんですけどね!(……どうしてもグレン起動時に親父の骸を発見してしまったカミナと重なり、父親を乗り越える、となってしまい、これは「私は明日へ向かいます」でも同じことで、つまりそれが「無限の上昇性」となるとか言ってしまうと、言い過ぎか)

 いかんいかんキリがないのでまた今度。シモンとカミナですらまだまだ全然書けていないのにニアとかロシウとかに触れようとすれば時間が幾らあっても足りないよ!

 あ、劇場版でははロー・ジェノムはブータとお友達でたぶんアニメ版第1話冒頭のシモンっぽいのは彼で、ヨーコにはヨマコ先生フラグがきっちり立っていて、とかとか、そんなフツーの発見もありました。たぶんどちらも追加要素。