J.Dさんへの返信

 取り急ぎ全文追記。
 先に逃げ道を用意しておくと、僕がサマウォを視聴したのはもう1ヶ月も前のことで、自分の中である程度まとめたものも書き終え、というか、「出し終え」、僕の中にあるのはサマウォ視聴後の残滓、みたいなもの、という断りを入れておきます(笑)

 おそらく僕とJ.D.さんの間には「家族もののハッピーエンド」の共通認識がないのでは、と思います。なので、「あれは家族もののハッピーエンドなのだよ」と言われても「?」となってしまいます。

 ここで言う「家族」が陣内家を指すのであれば、陣内家を受け入れ、そして陣内家に受け容れられたのは誰かなと思うと、それって一番は詫助ですよね。カズマも似た立ち位置ですけど、あれは通過儀礼を執り行ったというか、「家族の中で守られるべき子供」から「家族を守るべき大人(男)」へステップアップしただけ。J.D.さんの仰る「家族もののハッピーエンド」がどういったものかはわからないのですが、仮にそれが「家族という関係性を賛歌する話」だとすれば、それってこのふたりの“主人公”がいれば十分ではないでしょうか。

 僕はサマーウォーズって、「家族の話」じゃないと思うんですよ。絆の話、人と人との繋がりの話だと見ているんです。

 最上級の絆が「家族」だとすると、最下級は「インターネット上に存在する匿名の他人」で、「同級生」とか「同じ学校の先輩後輩」はまあ中ぐらいで。
 ラブマシーンを倒したのは、オズの住人という他人同士だけでも、陣内家という家族だけでも、勝てなかった。家族という狭く、そして強いヒエラレルキーの存在するコミュニティはひとから冷静さを奪う。正論が通じなくなる。ただの老人をただの老人ではなくさせることも、才気溢れる子供を偏屈な子供に変えてしまうこともある。逆に、理屈ではない求心力、無償の愛があるからこそそこで人は癒しを得られる。最後の瞬間まで飽きらめないでもいられる。世界の何もかもが間違っていても、生きていることの価値を信じられる。そういう効果を持った関係性。
「インターネット上に存在する匿名の他人」という関係性は、権力意識に乏しい。肩書きや権力にこびへつらうことがないので、正しくなければ受け入れてくれないし、逆に正しければ受け容れてくれる(これは極論ですけどね)。

 人と人との繋がりはこれ以外にも様々あって、どれかひとつではダメで、ふたつでもダメで、持てる全てを総動員してようやく対処出来た(僕は今ここで色々端折りました)。
 どんな関係性にも善し悪しはある。深い関係になるのが、必ずしも善いとは限らない。逆もまた然り。善いこと悪いこともろもろある。けれど、他人同士個人同士が繋がり合うことは悪いことばかりではない。

 僕、ラブマシーンがやったのは様々なものをひとつの統一意思の下制御することだったと思うんですね。人類補完計画万歳!よろしく全てを食らい尽くしてひとつになることだった。で、ナツキたちが行ったのが個人同士が自分を、自分たちを、お互い同士を想い合って力を合わせたこと。あれは統合制御された意思ではなかった。個を保ったままお互いが協力することだった。

 ケンジとナツキとまったく無の状態から、関係性を深めていく立場だった。彼らは「他人」から「家族」への第一歩である「恋人」の関係性を担っていたと、僕は思うんですが、その役割を果たせていなかったんじゃないかなと思うんですよ。
 手を握って、わたしを泣き止ませて。お婆ちゃんが亡くなったとき、彼女は誰からも手を握られていなかった。ケンジくんが繋いであげたら、もう片方の手を家族へ伸ばした。ケンジくんの片手は他のものと結ばれている。

 狭い輪を作ってそれでいいよねではなく、この世にいきるみんながどこかで薄く細く繋がりあっている。それは素晴らしいことだよね、という作品であったのだと思います。

 だからこそ、僕はケンジくんとナツキちゃんのふたりが手とを手を繋ぐことにもう少し力点を置いてもよかったのではないか、と感じてしまう。
 サマーウォーズは彼らがいなくとも成立しますが、そうすると「小さく」なってしまう。もっと大きな広がりを描こうとした作品ではないのか、と僕は思っている。

 そういうことなのですよ。