とらドラ!についてのよもやま話

【「とらドラ!」にみる男の奇妙な性心理】(隠れ蓑~penseur~)
私は自分の気持と向きあうことを、単純にまぶしさとは思えないなって保留をつけてこの作品を読んでる。

 分かる気がしますね。僕は竜児が自分のすべてと向き合うことを考えるとお腹が痛くなります。
 その衝撃に彼は耐えられないんじゃないかなー、という予感があって、倒れないように支えてくれる人は誰もいないのかもしれないと思っています。

 まぶしさというのは、闇を照らすばかりでなく、時に目を焼いてしまうということで、“痛さ”も含まれているとか、目が眩んで見るべきものが見えていない、と言えるのかもしれません。
 引用元さんも、あるいはそういったことが言いたかったのかもなー、なんて思ったり思わなかったりもしますね。

 ただ、とら青春活劇“だけ”ではないんじゃないか、そういうことですか、うーむ。

とらドラ! 4 (4) (電撃文庫 た 20-6)


ここが彼の核心なんだけど‥そして彼のある種の過剰な潔癖の性質の拠るところだと思う‥つまり性に対しての偽悪が彼の裏の本質。そしてそれは若さといって切り捨てられない奇妙な心理。

 僕はこれを家庭環境から来ている強烈なコンプレックスと見ているんですが、どうなんですかね。
 母子家庭で、それでいてあるいは私生児で、母親は水商売のお仕事をしていて。父親は堅気の仕事をしておらず、今は刑務所暮らしだという。

 普段はそんなことを気にしない風でいる彼なんですが、それは彼の比類ないほど大きな度量の証左であるのかというと、決してそうではない。
 大河絡みのくだりで見せた“父親”への強い憧憬は、強い憎悪、寂寥、諸々の裏返しで、実際に極端な反応ばかり出ていました。

 これは、決して口にこそ出さないけれど、彼は自分の境遇の不幸を嘆いていることから来ているんじゃないかな。たぶん、やっちゃんのお仕事とか、表面上は受け容れてはいても、別にそう悪い仕事ではないと思っていても、どうしようもないモノを抱えているのだと思う。
 加えて、母親が、父親を立て続けていることもかなり彼の精神に大きな影響を与えていて、難しいものがありそうです。彼女が嘆きを口にしないというのは、余計に辛いものがありそうです。

 自分がどう在るべきか、男とはどう在るべきか、女性とはどう接するべきか。そんなことを、同世代の男の子たちよりは強く意識して生きて来た、と僕には思える。

 彼が女性の強さ(つよさ)、というよりは強かさ(したたかさ)をよくよく理解しているような、そんなツワモノなのかというと、少しだけ疑問が残る。母の職業へのやわらかな理解があり、女性を半ば神聖化して見ているわけではないとすると、ちょっと説明のつかない行動を多々起こしていますし。

 以前にも書いたかと思うんですが、彼が行いたいのは誰かを救うことではなく、誰かの助けになることでもなく、自分を救うことであり、自分が助けられることであると、僕には見えている。

 大河を助けることで、彼女が幸せになることで、彼は自分の不幸が払拭されるような、そんな承認を得るような、そんな気持ちがあるんじゃないかな。自分が今不幸ではないという証左を、彼女に求めているんじゃないか。

 同じく生まれの不幸を持っている大河が、きちんと幸福になることで、それを確認することでまた、自分もそうなのだということを確認したかった。彼が大河に行ってみせているのは、“高須家流の幸福”の押し付けであり、それを彼女が受け入れ、自分は幸せだよと言えば、「ほーら、やはり自分は幸福だったのだ」という承認を得られる。

 そういう風に、僕には見えてしまっている。

 それは、親愛の感情に裏打ちされた行動でなければならない。母が自分にそうしてくれたような、どう考えても割りが合わない、どこまでいっても打算のない、まっさらで綺麗な気持ちに後押しされていなければならない。
 そうでなければ、自分の幸福を確認できないから。また、自分が母親のような行動を選ぶことで、“自分の父親”との差異を明確に出来る、ということも少なからずあるのでしょう。

 だから、彼は殊、大河へ接する際には強い自制が働いている。性への意識をなるたけ排除している。
 その他の女性へも、性を強く意識させるような、理性のない行動は避けている節があるのはなんとゆーか。これもまた、やはり父親のことが関係していて、「自分は軽はずみに関係を進めて、無責任なことはしない」という想いがあるから、というのもあると僕は思っていますね。

 だからこそ、みのりんへのプラトニックな想いを大事にしている。さして話したこともないのに(相手への深い理解があるわけでもないのに)、深夜にガシガシ手紙とか書いてしまっている。彼はああいう過程を経ないと、ある種の儀式を行わないと、恋をしてはいけないと、強く自制しているような、そんな気がする。


 と、ここまでが僕の見解。石田さんの読み方はある種、僕には新鮮でありましたね。

この奇妙な潔癖さがもたらす偽悪の罠に、竜児はそうとう深いところまではまっちゃってるかなって印象が私にはあるのだけど、ほかの人はどうおもうかな。私は「とらドラ!」という作品は、性的にこわい部分をあつかってるものと思う。そしてそこに無自覚で当ることにも、ちょっと危険のにおいは感じる。それは青春の問題というより、もっと根深い性の根幹に係るもののよな気がするから。

 僕は正直に言って無自覚に近いものがありました。

 竜児が酷くずるい態度に出ていることは分かっていました。

 女性へ気を持たせた上で責任を取ろうとしない。それでいて、気を持たせた女性が他の男性と親密な関係になるのをよしとしない。

 これは鈍感などということではなく、敢えて自分の欲求から目を逸らした結果であり、悪い言い方をするば、無自覚的に彼女候補、あるいはその代替としてキープしている。

 その点については、亜美が指摘していましたね。

 ただ僕は、それを上記に書いたように、「大河へは恋をしてはいけない」という強い自制が働いているからこそで、もしもその気持ちを自覚してしまったら、竜児という男の子が崩れてしまうからだと思っていました。
 それを認めてしまうと、大河に親愛を越えた、性的な好意を持って接していると自覚してしまうと、壊れてしまうものがあったんじゃないか。

 打算のない愛情が、幻想に見えてしまう。自分が払拭できると思っていた不幸が、やはりそうではないと思えてしまう。

 たぶん、仕事柄、やっちゃんに近付いてきていた男性というのは存在していて、弱みに付け込もうとしていた人たちというのも存在していて(自分の父親すらも含まれている)、そういった類の、恐らく彼が嫌悪していた志向を持った存在と、自分がそうはならないとしていた存在と、同類に堕ちてしまう。それを認めることが出来ない。

 そういった気持があるんじゃないか、と見ていたですよ。

 だから、僕は、

それは若さといって切り捨てられない奇妙な心理

 に対して、「き、切り捨てていたかもっ!」という気持ちがあります。
 自分をきれいにしておきたい、責任を取ろうとしない、という心理ですか。

 潔癖な人柄であり、責任感が強いからこそ、責任を取らざるを得ない行動を避けている、と。そういうことかな。

 ただ、その行動の原動力の中には、紛れもない性への意識も含まれていて、それがあることを自覚しようとしない、というのは不誠実、と。

 それはつまり、楽をして美味しいところだけツマミ食いしようとしていることで、もっと言えば他人に厳しく自分に甘いということでもあり。

 結構、その、これは。いわゆるギャルゲ(超鈍感)主人公への問題提起、とも取れるのかな。
 そのようにまた別の角度から見ると、とらドラ!は更に奥深くなり、面白いですね。