明智抄さんに寄せて

 漫画家の明智抄さんが亡くなった。ブログをぜんぜん更新しなくなって久しいが、「いつか感想記事を書こうかな」ぐらいの気持ちではいた漫画家だった。もうずっと更新していないくせに何を言うんだお前は、と思われることだろうが、「これはちゃんと記事を書きたいな」と思うことはいまもある。パソコンのメモ帳にその草稿みたいなのを書きはじめて、ちょっと書くのに飽きて、そのままツイッターに上げてしまう、みたいなことになればまだマシで、書き散らしたまま保存しなかったりもする。

 でも、今日はちょっと何かを書こう。

 明智抄さんというのは、歴戦の古強者である。昭和の時代から漫画を描いてらした。しかし、ぼくが彼女を知ったのはごく最近で、ここ10年ぐらいのことで、読み始めたのはここ2~3年ぐらいのこと。インターネットの友達であるところのangelcrown(きぶな)さんに教わった。いやきぶなさんは実のところ知り合った当初から「死神の惑星」の話をしており、つまり10年ぐらい前からしていたのだが、ぼくが実際に読むまでに7~8年くらいかかった。ずっと不義理をしていた。

 そういうわけで、まずは「死神の惑星」から読み始めた。本作は出だしから家出美少年がヤクザな青年実業家に拾われる。いまでいうBL。昔でいうやおいというほどではなくて、JUNEぐらいの感じの”濃度”。もともとの庇護者(あるいはそれらを内包する価値観)からはなれてアイデンティティを喪失した少年があらたな庇護者(そしてそれに合わせた価値観)を手に入れる。アイデンティティを得る。古式ゆかしくも古びれない王道。

 でも、この「死神の惑星」という作品は、それだけではない。手塚治虫火の鳥シリーズめいたSFであり、シロッコシリーズと呼ばれるクローン人間の運命について語ったシリーズだったのだ。手塚治虫火の鳥はすべてのシリーズが「火の鳥」だが、この明智抄シロッコシリーズについて物語る場合は毎回タイトルが変わる。死神の惑星はその嚆矢でありながら時系列上の「はじめ」ではない。さまざまな明智抄作品にシロッコシリーズのかけらがちりばめられており、全部つながっている。しかし、物語としてはそれぞれで独立しており、完結している。そこにおもしろさを感じてグイグイ引き込まれてしまった。

 しかし、残念ながら死神の惑星そのものも未完だし、明智抄さんが亡くなったことでシロッコシリーズについての物語も未完となってしまった。魂のありか、こころのありか、うつろな人間を幸せをさぐる、そういうテーマの”答え”のようなものは明智抄作品のそこかしこにあることはある。

 明智抄名作選「毎日のセレモニー」は短編集だけあって”長編でやろうとしていることの答え”がそのまま載っているような風合いで、誰かの幻影、自らのなかにだけある世界を飛び越えて、他者とつながることを描いていた。それは楽なことではないけれど。シロッコシリーズを通して語られようとしていたことのヒントもここにはある。何もかもわからないまま消えてしまったわけではない。

 しかし、それはそれとしてとても残念です。60歳は若すぎる。もっと読みたかった。お悔やみ申し上げます。