D.C.Ⅱ~ダ・カーポⅡ~ についてのよもやま話

 アニメ版について書こうかなと思っていたんですが、結局は原作ゲームの話を持ち出してしまったので両方に精通していない方には非常に分かり難いお話になっています。

 ま、あとは解釈の問題でして僕とは違った答えを見い出している方には異論もあるでしょう。受け付けます。



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 以下ネタバレ満載。


 D.C.ダ・カーポ~は奇跡の否定があった。魔法なんか、そんなものに頼らなくとも、もっと素敵なものがあるよ、それをこの朝倉純一が示してしんぜよう、ってな感じ。
 ま、複数ライター作品なので全てのルートでそれが守られていたわけではないですけどね。たとえば眞子ルートとか桜これっぽっちも関係ないし。

 音夢は「純一と繋がる魔法」を、最終的には捨てた。そんなものがなくとも人と人は一緒に生きていけるよ、というかそれを使えば一緒に生きてはいけない。あなたとわたしの別の二人が共に歩いていくことは出来ないんだよ。

 さくらはうーん。魔法を捨てるちうか、永遠の続く楽園の否定がルートの根底にあった。彼女のお話はD.C.ダ・カーポ~という作品の集大成でした。だから、D.C.Ⅱは作ってはいけなかった。まあD.C.Ⅱでは音夢ルート通過が正史として扱われているようなので、そもそも前作ディレクター&メインライターである御影さんの否定となってしまうんでしょう。
 他にも、彼女のお話のテーマとしては人の心の不条理さが描かれ、自らのエゴとの戦いがあり、モラトリアムからの脱却もあり、恋の駆け引きだってあり、何より愛情とはなんたるかを説いていた。それは寄り掛かることではなく、押し付けることではなく、信頼すること、そして信頼されるに値する人間で在り続けること。そんなお話。

 きちんと終わったものを、誰かさんが人を食ったような顔で「いやそんなわけがないよね、そんな簡単に人の心が定まるわけがないよね。人間が我欲を捨てられないものだ」と作りだしたのがD.C.?であるわけですよ。もうね、それはやっちゃいけないことでしょうよ。本当にやってはいけないこと。
 であるんですが、“それ”を分かっていないユーザーが多過ぎるのが僕は悲しいね。お前ら分かんなかったのかよと。じゃあしょうがないよね、曲芸商法が嫌とかじゃないよ、自分の書いたものを丸々否定されちゃあ、そりゃminori行っちゃうよ。そこは大人になれないよ。


 とまあ詮無いことをウダウダ書きましたが、僕はやっぱりD.C.ダ・カーポ~が好きなんですね。さくらさんが大好きなんですね。でまあ、「音夢ルートを通ったら彼女はこうなっちゃうよねククク」みたいな悪魔の囁きに「……う。た、確かにそれもあり得ないこともなくもないというか当然の帰結というかモニョモニョ。で、でもそれやっちゃあ本気で前作の否定じゃないか!あ、さくらさん出て来た(*´д`*)もう何でも許しちゃうよ(*´д`*)」となってしまうわけなんですね。

 D.C.Ⅱにはある一点において奇跡の肯定がありますが、まあ、本作がお伽噺を選んだのであれば、仕方ないのかなと。となれば、めでたしめでたしで終わらなければならない。つまり、こうすることでようやく“おしまい”になれるのでしょう。

 ここでアニメ版D.C.Ⅱの擁護をしておくと、美夏回も杏回もいわゆる「お当番回」と言いますか、ゲームのプロモーションだけが目的で用意したのではないでしょう。あれには「義之は魂のない操り人形なのでは?」という含みとか、彼が持っている様々な関係性の強化とかとか、意味があってしていることなのだと僕は考えています。
 彼が魔法も使わずに奇跡のような、あるいは喜劇のようなことをしでかしているのは、さくらさんがそう望んだからなのかもなー、なんて。それは純一のトレース。あとは、その、ある種義之には枯れない桜の化身という趣もあって、「求められると断れない」「望まれると断れない」という存在なのかもなー、なんて思うのです。枯れない桜を否定する、さくらさんの求めたピーターパン。あるいは、物語を終わらせるヒーロー。

 この辺、僕にも消化し切れていないことですのでモニョモニョ口ごもってしまうこと。そうすると、登場人物たちは鏡合わせに“自身が望む義之”を見ていただけで、彼自身というのは、もしかしたらどこにも存在しないのではないかな、とか思う。そうすると、D.C.Ⅱはとんでもなく皮肉めいた、愛情の否定が行われているということになってしまう。信頼の否定。わたしは、わたしだけで十分。“あなた”はいらない。わたしだけで完結している、という、ひどく閉じた、ペシミズムに囚われた悲し過ぎるお話となってしまう。
 こういう萌え系作品ではよく、ヒロインが空虚な人形だと言われ、ユーザーは虚像を相手にしている、なんてことが言われる。それが正しいかどうかは、まあここでは語らず。問題はtororo団長やディレクターの雨野氏がそう考えているかどうか。そのまったく反対のことが、本作においては表現されているとすると、D.C.Ⅱは恐ろしい作品であると思う。つまりは、主人公こそが実体のない虚像。ヒロインの希望を叶える存在。彼女らは自分が抜け出せない泥沼に沈みつつあると認識していて、そこから助けだしてくれる王子さまを求めている。求められるままに義之は彼女たちのヒーローを演じる。彼には自由意思なんて存在しない。

 まあ深読みし過ぎだとは思いますけどね。